Take Me Out 2018が無事に閉幕しました。
まずはご来場下さいました全ての方に感謝を。
観に来て下さった皆様が本当に色々な考察をして下さっていて有難い限りです。
少しだけ、どういう心算で取り組んでいたのかという話をしようかと思います。
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まず、極めて個人的な話からで申し訳ないけどこの作品は、自分の中でも『会心の一撃』な作品だった。
自分がやりたいこと、演出がやりたいこと、共演者がやりたいこと、プロデューサーがやりたいこと、それらががっつり噛み合って良い意味で全くもって隙がない作品に仕上がった。
加えて、自分が必死こいて戯曲を読み解いて、メイソンという役を始め登場人物一人一人について思いを巡らせ、それを結んで行ってそうして演出の藤田俊太郎の観せたいものへと昇華させられたという意味で、これ以上無い演劇創作体験が出来たという手応えがあった。
人生でそういう作品、現場に出会えることはなかなか無いのです。
感無量でした。
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何もかんもすっ飛ばして簡潔に言うと、皆さんが考察して下さっていることは全部あってます。
これを言っちゃあおしまいだけど、全部正解なんです。
だって答えなんてないから。
少なくとも俺は、メイソンと一緒に毎日を過ごしてその日産まれる感情や思いや関係性を、ただただ素直に出していただけです。
だからきっと何度も劇場に足を運んで下さった方は解るはず。
二度と同じシーンが無かったってこと。
それは稽古の時からそうで、毎日、毎ステージ、同じ瞬間は一度も無かった。
だから具体的なことを言えば『本当に、悲劇だった』だって、メイソンの個人的な悲劇だった時もあれば全然悲劇じゃない時もあったし、もっと大いなる何か、例えば神様に対して怒りや悲しみをぶつけていたこともあったし当然あの物語の中で起こった出来事に対して言った時もあった。
直前にダレンから告白をされても、その『悲劇』は変わらず『悲劇』なんです。
なぜならTake Me Outはそういう物語だから。
だから、さっきの『会心の一撃』の話も相まって全て、なるべくしてなる結果でそれは解っていたことなんです。
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ただ、圧倒的に想定外だったことが一点あって。
偉そうな物言いになってしまうかもしれないけれどそれは、言わずもがなダレン・レミングを演じた章平の凄まじい成長速度だ。
元々、受信能力がずば抜けてる章平が、公演期間中に発信する楽しさを手に入れてかつ、それをコントロールして打ちかますようになっていったこと、これが一緒に芝居やってて楽しくて楽しくて仕方がなかった。
目の前で表現者が化けていく瞬間を見ていられるというのは最高ですよ。
やりとりに果てがなくて、これはどこまで行けてしまうのだろうと日々ワクワクしていたものです。
それが出来たのは、座組の誰もがこの作品を諦めなかったからだと思ってる。
40ステージという昨今なかなか無い長丁場を誰一人として消化試合にしてなかったから、果てがないという余白を導き出せたんだと思ってる。
そりゃあ全部正解になりますよ。
そういう演劇だけ、本当は存在しているべきなんだけどね。
出会えて良かった。
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長くなりそうなんで締めます。
今、2003年アメリカのゲイのユダヤ人の会計士から、1946年の日本の復員兵になっていってます。
演劇って本当に凄いよこんなことが出来ちゃう。
TMOに限らずね、演劇に携わってくれた人の人生が狂っちまえって切に願うよ。
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言葉のナイフがザックザクに刺さります。
ずーっと。
こればっかりはどうにもならん。