更にまとめに入ります。
年内、ブログをもう一度更新する自信がないので今の内に。
ツイッターには雑感を、ブログにはその雑感の考察と正体を、書いていければ良いなと。
案の定めちゃくちゃ長い文章になると思います。
暇潰しに、是非。
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『鉄コン筋クリート』が無事に終わりました。
関わって下さった全ての皆様に、尊敬と慈愛と感謝を。
初めて松本大洋作品を読んだのは『花男』で、親戚の家に遊びに行った時にイサムお兄さんが『絵を描くのが好きならこの漫画を読んだ方がいい』と言って3巻セットでくれたのが最初。
小学校高学年か中学生だったと思う。
そこからどハマりしていって『ZERO』からばーっと集めて、演劇始めてからは黒テントさんの公演で『鉄コン筋クリート』が上演されたことを知ったり、書き下ろしの『花』と戯曲『メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス』でテンションぶち上がったりしていました。
何より、我々の世代での最大の盛り上がりは『ピンポン』の実写映画化だと思う。
渋谷のシネマライズに公開初日に観に行き、パンフや指バンド?やオリジナルプリントのピンポン球を買い漁って。
うちら世代の演劇やってる連中にとって、窪塚洋介さん、宮藤官九郎さん、松尾スズキさん、大倉孝二さん方はレジェンドの域で、そういう意味でも凄まじい映画だったのです。
俺は絵を描くことを仕事にしたかったってのと、当時326さんが流行りこれまたどハマりしていたので、原宿のキディランドの前で自作のイラストをポストカードにして販売したりしていて。
バリバリ松本大洋さんに影響受けまくっているイラストを描いて売ったりしていました。
原宿、そういう時代があったのよ。
鉄コン筋クリートを読み、後に演劇を始めた当時の俺は『舞台版を今一度やることがあるなら、絶対に沢田かイタチをやりたい!』と思っていた。
そうして演劇界を生きてきたので、今回の舞台は自分にとって奇跡の公演だったのです。
こんな風に夢が叶うことなんてあるのかと。
神様がくれたご褒美だと思う。
もう一つ言っておくと古屋兎丸先生の『ライチ☆光クラブ』も20代前半だったかに読んでいて『舞台版を今一度やることがあるなら、絶対にタミヤをやりたい!』と思って生きて来ましたよ。
神様とネルケ様にただただ感謝です。
鉄コン筋クリートは、思い出の作品なんですよ俺にとっては。
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さて。
この公演で沢山の発見があった。
答えはまだまだ出ないくらいフワフワしたものなのだけど文章にして整理してみる。
ワクワク。
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座長力に関して、このブログで何回か書いたと思う。
要は座長とはどれだけ『支えてやるに足る人物と思ってもらえるか』を突き詰めた存在で、言い方を変えればどれだけ『愛され、人を惹きつけられるか』ということだ。
お陰様で自分は今日まで、素敵な座長と出会い続けることが出来たので『この人のために出来ることは全てやろう』という感覚がなんとなく分かっていて、安心して演劇に取り組むことが出来た。
無意識に無自覚に献身的で居られれば居られるほど、結果、自分の芝居に集中できてそれが座長を助けることになるのだなぁと思っていた感じていた。
でも今回の鉄コン筋クリートはもう少し違くて、なんだろう、例えば物理的に現場を盛り上げるとか雰囲気を良くするために冗談を言うとかじゃなくて、徹頭徹尾、芝居をしている姿でその背中で座組みのみんなの魂を掴んでくれたんですよ若月佑美は。
真摯に、健気に、直向きに、ただただ稽古を経て『クロになっていく』を実行している。
それを自分より10近く歳が下の女性がやっていて、自分の想像を超えてくる規模で実践していて、結構新鮮な体験だったんですよね。
そんなんもう尊敬だし、この人のために出来ることは全てやってやろう状態ですよ座組みのみんな全員がそう思っていたはず。
常々、自分のためにやる演劇の限界みたいなものを考えて来た。
誰かのためにやる演劇の無敵性みたいなものを考えて来た。
相変わらず、自分の満足や私利私欲のためだけに演劇に取り組むのは俺の性には合わず、疲れちゃうんですよねどんどん消耗してっちゃって。
自分以外の誰か、個人でも良い集団でも良いもしかしたら世界とかでも良いのかもしれない相手は。
そういう自分以外のために演劇を燃やし続けると助け合えて補え合えて、だって自分の中に演劇がある訳じゃないから、少なくとも演劇は自分の外にあるはずだから、物凄く楽だし楽しいんです。
他者がいて初めて成立する世界で、きっと誰かの中にも演劇は無くて、自分と誰かの『あいだ』にしか演劇は存在しない。
当然、口に出してこんなことを確認した訳じゃないけど、鉄コン筋クリートの座組みには座長と我々にその『あいだ』の演劇が相互にあって、それを芝居に対する態度で提示出来たのが非常に豊かだった。
若月佑美じゃなかったらこうはならなかっただろうという予感がプンプンしている。
加えて俺は原作も愛していて、もう今回の演劇に全て捧げます状態だったから、色んなものが相まるとこんなにも豊かな本番を過ごせるのかと、かなり充実していたのでした。
稽古段階で充実するのは今まで沢山あったけど、本番中での充実をこんなに実感したのは初めてだしその充実への持っていき方を掴めた気がする。
発見と発展と実践へ。
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我らが座長がカーテンコールの挨拶にて
『客席に皆様がいて初めて演劇は成立するので、数ある演劇の中から今日この作品を選んで足を運んでもらえたことに感謝します』
って言っててさ。
マジで座長に恵まれました。
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演劇をね、演劇以外の目的で乱用している方々ってのは一定数居て。
近しい仲間たちがそういう方々のせいで嫌な思いしたーって話を良く聞くんです。
あと、凄く目にする。
演劇の目的ってなんなんだいって言ったらそりゃ人それぞれ違うんだろうけどね、間違いなく言えるのは誰かを傷つけるための手段じゃないってことで、もし今、演劇で傷ついている人がいるのなら、それはあなたが選んだ演劇が間違っているからそこから今すぐ離れた方が良い。
あなたを取り巻く演劇が膿み始めているということだから今すぐ治療した方が良い。
演劇は誰も傷つけないし誰にも傷付けられない。
それが違えるというならそれは恐らく『演劇』じゃなくて『演劇のようなもの』だよ。
一番望ましいのはその状態を自力で、実力で、信念で抜本的に変えることなんだけど、誰も彼もが今すぐそれを出来る訳じゃない。
支配や暴力、権力の施行から来る恐怖ってのは簡単に拭えるものじゃないから、そこから離れる、逃げ出すってのは全然恥ずべきことじゃないよ。
むしろそこに立ち向かって付き合わされて、消耗させられて不当に干渉されて、ぶっ壊れてしまったら元も子もないから先ずは自分。
自分にとって『何が一番大切か』を良く考えて、自分を全力で守って下さい。
自分の価値を自分で決めてはいけない。
それは余りにも勿体ない。
誰かが勝手に決めてくれる。
ああそうなんだ程度に思えば良い。
のだけど、同時に誰かが蔑みもしてくる。
こっからが重要で、判断しなきゃいかん。
その謎の蔑みを受け入れるのか撥ね飛ばすのか。
決めるのは己でしかない。
決めたら、じゃあ、なんぼでも助けるから。
話聞くし相談乗るし闘うし一緒に。
一人で頑張らないで。
なぜなら我々は演劇で繋がっているから。
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そろそろ読むの疲れて来たでしょうけど、まだまだ続くんです。
横になりながら、寝落ちするまでの暇潰しに、さ。
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人を信じる、信頼することを突き詰めるこの仕事に従事出来ているのは、心底では人を疑っているからなのだろう。
信じたいから必死になる。
何か無いかと足掻く。
人は必ず、最期は一人だということを徹底的に叩き込んで生きてる。
だから最期のその瞬間までは、一人じゃなくいてやるんだって強く思って生きてる。
自分が絶望しても演劇はちっとも変わらずそこにいて、そんなものだと思う演劇なんて。
絶望なんかより、忘れなきゃいけないってのが俺は一番堪える。
無くなるってことだから終わっちゃうってことだから。
だから台詞はいつまで経っても抜けない。
でもそんなことは大事なことじゃないし本質じゃない。
究極、人は分かり合えないからそれぞれの『あいだ』にある演劇を持ち寄って擦り合わせてぶつけ合って分かり合おうとしてる。
分かり合えないことにこそ豊かさが溢れている。
そういう意味で、人を疑っている決して悪い意味ではなく疑わなきゃそこで誰かを慈しむことが終わってしまうから。
本当にそれでいいのか、それで正しいのか、それが誰かにとって相応しいのか、独りよがりになっていないか。
疑い続けなきゃ結論が出ちゃう。
人間関係に於いて結論出ちゃうことほどつまらんことはない。
人は刻一刻と変わっていて、状況も緩やかに変化していて、たった一つの結論で誰かと一緒にいるのはもったいない。
ずっと誰かを慈しみたいから、知ることを諦めないで感じ続けて、そうして疑い続けて生きていく。
演劇って愉しいよ。
だから俺は劇団にいるしきっとこの先ずっといる。
変わり続ける愛しいみんなを、一番近い距離で見ていたい。
それが結局自分のためになって願わくば永久機関。
増えていく共通言語と感覚、豊かさ、超越した先に何が見えるかを、俺は死ぬまで追い求めてみます。
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この記事はそろそろ終わり。
長くなってごめんなさい。
鉄コン筋クリートロスだ。
得た感覚はこんな感じだ。
また急に書きたくなるかもだから、暮れの挨拶はしない。
そん時はまた『長ぇー!!』って読んでやって下さい。
またね。
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自分らしく生きて否定されるというのなら、否定したらいい。
生きたいように生きることに罪はないのだから。