2016年08月08日

殺人的なジョーク

音楽はいつだって何度だって必ず、必ず平等だから有難い愛しい残酷だ。
頭を金槌で横からぶん殴られるような衝撃が時には雨だれ石を穿つかってくらいの淑やかさで耳から流れ込んで来ちゃうもんだから、その雨だれは眼から涙に毛穴から脂汗に、ぶん殴られた衝撃はそのまま声に音に叫びに、なってしまうものだ。
そうして身から出た音や感情は、間違いなく音楽だ。
音楽は音楽を産み出す。
いつだってそうだだから有難い愛しい残酷だ。
残酷なのだ。


あなたの眼の前に今、大切にしてきた宝物、何でもいいが例えば愛しい人から頂いたアクセサリーか何かがあるとする。
それを先ず、良く想像してほしい。

その宝物を盗むでもなく、汚すでもなく、ただただ破壊しようとする存在がいるとしよう。
あなたならどうする?
破壊という事はつまり、もう二度と同じ姿のソレには出会えないという事だ。
この世から、消し去るべく、侵略してくる存在がいるのだどうする?
答えはひとつ、「排除する」だ。
大切なモノは守らなくてはいけないさもなくばあっさりと消え去るこの世から無くなる二度と手に入らなくなる。
あなたがどんな善行を積み重ねて来ても、誰かの事を想い祈り尽くして来ても、この平穏が永劫変わらず続きますようにと心底から願おうが、あなた以外の存在はそんな事は一ミリも知らない鑑みない思いやらないから、奪われるのですよあなたの意思とは全く関係ないところで、全く関係ない感情で。
その恐怖と隣り合わせで毎日を生きる事がもし出来たなら、つまり脅かされる危険を意識しながら感じながら一分一秒を生きられれば、毎日はきっとキラキラと輝き出す。
そして安穏を脅かす存在を排除するその覚悟が、生きる意味になるはず。
一挙手一投足を大切に思えるはず。

世の中は須く残酷なので、その残酷の海を泳ぐ覚悟と、些細な傷口にも染み入るその海の水に耐え得る魂を、泳ぎ切る肉体を、持ち合わせて生きようではないですか。

人は、最期には必ず一人。
慈しみ、尊び、前だけ向いて直向きに生きて行こうが一人になる時が必ず来るのだから、自分の人生の意味と価値は自分が先ずは勝ち取らなくてはいけない。
何でもいい。
金を稼ぐ、愛する人を見付ける、何かを生み出す、そしてそして、誰かに影響する。
何でもいいから生きる意味と価値を。
死ぬ価値を。
勝ち取れ。

一人であるという事は、一人じゃないから実感出来る。


お酒が飲めない。
が、そろそろ致命的になってきた。
演劇でお酒の味を表現しなければならない時、俺はそれが出来ない。
お酒の席での作法を表現しなければならない時、これは勉強したから多少は出来るが、心底の意味では体得していない。
具体的に言えば『お酒の席あるある』が、俺にはピンとこない事がある。
グラスの扱い方、テーブルクロスの使い方、瓶の所作、飲み方嗅ぎ方の『大衆性』を俺は知らない。
が、実はそれはどうとでもなる。
勉強と想像を、すれば良いのだ。
実際の経験に勝るものはないが演劇は想像力で補える部分があって、物凄い暴論になるけれど、勉強して想像して、結果お客様に真実として伝われば良いのだ。

じゃあ何が致命的かと言うと、演劇に携わった人なら誰もが想像に難くないであろう『お酒の席でのクリエイション』に参加出来ない事なのだ。

お酒の席でのクリエイション。
何の事はない、お酒の席で交わされる演劇に携わる話、稽古に関する話、誰かへの思いなどなどを、共有する事が出来ないのだ。
情報としては、後で何処かで聞けばそれで済む事なのだけど、良い意味での酔った勢いや、その瞬間の熱量や、酩酊状態故のその場の本音などは、計り知れないのです。

柿喰う客は酒が飲めない人が多いので、劇団員同士で飲みの席が催される事はあまり多くない。
新劇団員が入って飲める人が多くなったのでこの先どうなるかは解らないが、結果として飲みの席で演劇の話になる事があまり無かったように思う。
ただひたすらイチャコラした会話を繰り広げているだけだ。
それが俺には物凄く心地が良い。
柿喰う客という劇団の大好きな部分でもある。
演劇は稽古場と劇場にしか存在していない感じ。あくまで感じね実際は存在しているのだけど。

お酒は、大衆心理が動きやすい。
ある理由から、俺は人に迷惑をかける酔っ払いが大嫌いだ。
この理由は話すと長くなるのでいつか話すとして、酔っ払っているから、大衆心理が動いてまるで正義を勝ち取った風になっているからと言って、例えば誰かを傷付けて良い訳ではないし、誰かを悪にして良いとはならない。
自分の周りにたまたまそういう風潮が見受けられて、悲しくなる。

そして何より、酒の力を借りなければ何かを決断出来ない、という風にはなりたくない。


イヌの日が始まります。
一つ。
松居大吾が闘っている。
だから、大吾の為に俺も闘う。
posted by 玉置玲央 at 23:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

自分の知らない所、目の届かない所で、自分の力じゃ到底及ばない揺るぎない何かが動いていて、それがミシミシと音を立てて緩やかに状況を変えていくのが、本当に嫌だ。
絶対に介入出来ない場所で状況で、何も手出し出来ないまま、勝手に世界が変わっているなんて、そんな不公平な話があるか。


拒絶されたらお終いだ。
拒絶の裏で新たな芽が出ていて、宿り木みたいに蝕まれて、本来そこに咲いていた花をさておいて、新しい生命は大切だし尊いし物珍しいから寵愛されて、枯れていく。
花が枯れる。
そんなんは嫌だ。
でも何がしかを信じて、例えば言葉を鵜呑みにしてただただ堪え忍んでいても、結局痛い目見るだけなのだ。


何かが終わったら、その花たちはまた寵愛を受けれるのだろうか?
花は水を渇望し続けている。
咲きたいし咲かせたいし咲いていて欲しいし咲かせて上げたい。

野に咲く花の様に美しくありたいってぇのは強がりでしかない。

愛でられてこそ愛でてこそ、花。

愛でられている間が愛でている間が、花。


花よ、咲き誇れ。
posted by 玉置玲央 at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

夢の終わり

久々に、プレ稽古から含めて三ヶ月、一つの作品に関わった。
何だか不思議な気分だ。


本当に色んな事を学んだ夢の劇という作品だが、一番特異点となり得るのは、森山開次さんとの出会いだ。

松本だけ、楽屋割りが違くて俺は何でか開次さんと同じ部屋だった。
そこで成された会話はその特異点の最たるもので、掻い摘んで言えば『許される存在』にならなければいけない、という話だ。
やはり表現者は最後はそこに至るのだなと。
そしてその意識は、踊りに捧げている人の方が強いように思う。

誰に許されるか、言うまでもない。


高校生の頃、学校のカリキュラムと、お付き合いしていた女性の趣向も手伝って、ダンスの世界に傾倒していった。
H.ART CHAOS、伊藤キム+輝く未来、コンドルズから始まり、パントマイムに興味を持ち水と油を知り、親父にこれを観ろ!と山海塾を勧められ、そこから大駱駝艦、大野一雄氏を知った。

身体が美しい

という事に、今思えば何か思うところがあったんだろう。
そんなダンス観漁り時代に出会ったのが、森山開次氏。

NHKの番組で、脚の甲を延ばす為に超無茶な事をしていたと話している姿を、未だにハッキリ覚えている。

何も無いところに無限の世界と感情と風景を、その身体一つで創り出す開次さんの姿にマジで惚れた。
俳優と一線を画すのは、その身体の美しさにある。
演劇思春期にそんなもん観てしまっていたから、未だに根底には『美しくなければいけない』みたいな使命感がある。
これは容姿や体躯もそうだけど、様式の美しさにも言える事だ。
腕が足が身体中が柔らかくしなやかに時にそれこそ刀みたいに動く。
憧れない訳が無い。

だから今回、出逢えて、そして踊らせて頂けた事を本当に有難く思う。

超スーパー烏滸がましいけれど、『許される存在』にちょっとだけ近づけたんじゃないかなと思って、帰りの新幹線で少し泣いた。

開次さん、本当に有難うございます。


amazarashiのアルバム『世界収束二一一六』に『吐きそうだ』という曲があって、その唄い出しが『生きる意味とは何だ』から始まるんですね。
それを考えると想うと聴くと、涙が止まらんくなる。

で、大阪でさっき村上誠基と会ってさ、あぁ俺の生きる意味はこれだって、思ったよ。

誰かの為に生きる。

それだけで良い。
それが良い。


という訳で柿喰う客フェスティバルモードへ。
アレクサンダー・クルックが、三御堂島ひよりが、君を突き刺す。


誰かの為に生きる。
必ず死ぬのが必死なら、俺は必ず生きる。

必生。
posted by 玉置玲央 at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

VS

世界は本当に不公平だ。
足の引っ張り合いだ。
狡い事ばっかりだ。
そして同時にがっかりだ。


どんなに努力をしても、どんなに研鑽を重ねても、どんなに細心の注意を払っても、何にも考えてない欲望のままに生きる奴らがそれを掻っ攫っていく。
超スーパーウルトラポジティブマインドな自分としては、そういう奴はきっと何処かでバチが当たるし、その憂き目に遭った人は何処かで最高に幸せな事に出会えるって思ってる。
因果は巡る。
そう思える自分だけだったら。
自分が巻き込まれるだけだったらそう思えるけれど、でもこれが沢山の人を巻き込んでいるのなら、やっぱりそれは許されるべきではないんだな。

生きる上で、取り除けるリスクは取り除くべきだ。
誰かの為に生きれれば、それだけで色んな事に気付ける筈なのに。


松本の楽屋で、森山開次兄さんと『許される踊り手』の話をする。
これは『許される俳優』に通ずる話で、物凄く有難い話が聞けた。
やっぱり、森山開次兄さんは凄い。
完全無欠。
たまに電車の切符無くしたかと思って、あたふたしてる事あるけど。
完全無欠。

憧れはもう崇拝に近いものになりつつあるが、氏の孤高さはどこか居心地の良いものがあって、手を伸ばしたり触れても大丈夫なのだなぁと、直感的に感じる。
それが許されている。
誰に?
神に、だ。


岡田太郎から『いまさらキスシーン』の曲が届く。
脳汁がドバドバ出ている。


休まない。
休んだら血が青くなる。
ので、明日も演劇。

生きてていいなら生きてやる。
死んだ方がいいなら死んでやる。

そんな諦めにも似た前向きさで、レッツゴー。

posted by 玉置玲央 at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月24日

いづれ

朝、目が覚めた瞬間から、ジワジワと『あぁ、今日も本番なのだ』という柔らかな緊張感に包まれていくあの時間が好き。
周りが明るく開けていくような。
はたまた、どんよりと煙に包まれていくような。
ちょうど、水泳やっていた頃の試合の日の朝と同じ感じ。


こう寒いと、何を着て良いのか解らなくなりません?俺はなる。
着るものに基本好みは無く、あまり宜しくない考え方だが所詮は布、寒さ暑さを凌げれば何でも良いってのが正直な所。
なのだが、稽古着には拘りがある。
一体いつからかはもう記憶に無いのだが、稽古着は専らサルエルパンツ。
機動性、通気性に優れ、暑くなったら捲り上げられ寒くなったら足首まで保護出来る。
プラスアクトの対談で倫也も言っていたけれど、滾ってくるともうなんか知らんが服が邪魔になってきちゃうみたいなんですね。
そんな時にサルエルは便利。
ただやはり、自分が出ている芝居の性質上、消耗品かってくらいサルエルが朽ちていく悲しい悲しいああ悲しい。
カスガイメンバーに誕生日にもらったやつだけは、死守してやるのだ。
滾ってしまう方、サルエルお勧め。


iPhoneのメモに日々の雑感を書き留めていて、遡ったら2011年が一番古い。
そのメモの書き出しはこうだ。

ゼロでいる瞬間を沢山作る。
それによって芝居が生きる。

当時、河原雅彦さんに頂いた言葉を自分なりに解釈してしたためたメモ。
26歳の玉置玲央、31歳の玉置玲央、変わらないので安心した。


皆さんは、好きな台詞とかありますか?
好きな作品、好きな俳優、好きな演出家etcはパッと思いつくかも知らんが、好きな台詞。
出演したもので言えば、俺はやっぱり『朝日のような夕日をつれて』の冒頭と最後。
鴻上さんの衝動と滾りが感じられて、大好きだ。
生きる希望にすら繋がっているのは、つかこうへい氏のストリッパー物語『人は幸せになる為に生きている』だ。
これはストーリーありきな所もあるのだが、俺はこの台詞を『死ぬ人間に対して生きる人間には幸せになる義務がある』という言葉でもあると捉えている。


生きる人間はその生を、全うしなければならぬ。


天気、悪い。

posted by 玉置玲央 at 09:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月19日

絵を描く事と文具について

小学生の頃、絵画教室に通っていた。
世田谷区を拠点に活動している、伊藤和子先生が俺の絵の師匠だ。
絵で、将来ご飯を食べていくのだと漠然と思っていたが、上には上がいてそんな人はゴロゴロで美大には行けなかった。
芸術に果ては無い。


デッサン、レタリング、水彩、油絵、アクリル、版画、平面から立体まで色々勉強させて頂いた。
先生は具象の作品より抽象の作品が多く、そこも大好きだった。
ああ、こんな事してしまって良いのか絵画に於いてルールなんて無いのだなぁと思えたのは、尊い。
具体的に言うと先生は、様々な紙に描いた抽象画をバラバラに切り刻み、改めてキャンバスにコラージュし、更に色を塗り重ねて一枚の絵を完成させるという手法を取っていた。
これが何でか不思議な魅力とエネルギーを持っていた。
なので俺も、抽象画にはまっていった。


高校生の頃になるとイラストを描くようになる。
当時は表参道のキディランドの前、路上で自分のイラストを売る方々が沢山いて、俺もそんな方々に混ざってイラストを売っていた。
キャラメルボックスの渡邊安理と、二人で行ったりもした懐かしい。
従兄弟が、これ面白いよと貸してくれたのが松本大洋氏の『花男』で、めちゃくちゃ影響を受けてずーっと模写していた。
そんな感じのイラストを描いては路上に並べていた。


中屋敷法仁がデーリー東北でコラムを書いている。
有難い事にその挿絵を描かせて頂いているのだが、小学生の頃から今に至るまでのそれらの経験が役に立っている。
絵を描くという事を、嫌いにならずに続けていて良かったなぁと強く思う。
絵は俺を嫌いかも知らんが、俺は絵が好きだ。


父が、中学生の時にステッドラーのシャープペンシルをくれた。
今で言う925 25シリーズの0.5mmのブラック。
今、黒は無いのだっけ?
その頃から俺はステッドラー党でミリペンも色々使い倒して結局ピグメントライナーに帰って来た。
水彩色鉛筆だけはファーバーカステルを使っているステッドラーごめんよ。

筆記具。
本当は、書ければ何でも良いべ?ってぶっきらぼうに笑い飛ばしたい所だが、やっぱり毎日使う物だし、特に台本などに書き込んだりする時にそのペンに愛着があると拘りがあると、台本も作品も演劇も、愛しいと思えるようになってくる。
毎日使うからこそ、そこに愛着と少しの幸福感があるだけで豊かになる。
俺にとってのその基準は、そのペンのデザインと書き心地である。


三菱鉛筆株式会社が出している油性ボールペン、ジェットストリームを皆さんはご存知ですか?
流行り物があまり好きでは無い自分はずーっと手を出さずにいたのだけど、柿喰う客の世迷言の稽古休憩時間に鉢嶺杏奈が急に文房具を皆に配りだして、その時に4&1をくれたのだ。
それ以来、油性ボールペンはジェットストリーム一択。


台本に書き込みをする際、人によって様々だがボールペンを使う人が多い気がする。
俺は変更があっても消せるように、シャーペンで書き込む。
昔は、台本を持ってポケットにシャーペン入れて柿喰う客の稽古やってると、シャーペンがぶっ飛んでぶっ壊れる事が多々あって、なので頑丈でペン先が収納出来るぺんてるのグラフギア1000を愛用していた。
今は専らシャーペンは置いて稽古をするようになったし、暴れ回る現場が少なくなったので、シャーペンをぶっ壊す事は無くなった。


そうなると文具好きの愛着求めとしては、心底愛せるシャーペンを求め始める訳だ。
それが昨日、ツイッターにも書いたロットリングの800の0.5mmに辿り着く。
悔しいが、重さ、握り心地、指に当たる感触、書き心地が最高なのだ。
そしてデザイン。
マットな黒にドスい赤でロゴが書かれていて、これがシンプルで素晴らしい。
ペンの上部を回すとキリキリキリ…という小さい音と共にペン先が繰り出されるその収納ギミックのインダストリアル感。
ああ…


いつかロットリングの800で、台本への書き込みも絵を描く事も、もっともっと愛せたらと思う次第である。


この話、文具好きじゃない人にはさっぱりだな。
今日も頑張ります。
posted by 玉置玲央 at 10:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月17日

腹痛につき東横線途中下車現象

今日も夢の劇である。


いまさらキスシーン
中屋敷法仁が書いた一人芝居。
女子高生の3年間を30分で描いた破茶滅茶な話である。

いつだって、この作品をやる事ばかり考えて生きてきた。
今の自分ならどうアプローチするだろう、台詞はまだ揺蕩っているか、三御堂島ひよりならどうするだろう。
色んな現場で、色んなタイミングで、思いを馳せる事が一杯。

中屋敷曰く、この戯曲は玉置玲央へのラブレターなんだって。
ならこの作品は、俺からお客様へのラブレターだ。

お楽しみに。


同じ水準で、同じ風景を見られる人に出会えると、嬉しい。
一瞬でその場所に立って、年齢性別関係無く邂逅して、頑張ろうやなんて肩を叩いてくれた日にゃ、思わず嬉し泣きしちまうじゃねぇか。

何をしていても何処にいても誰かが必ずあなたを見てる100人いたら1人も興味が無いなんてこたぁ有り得ないだからその1人の為に、必死に生きても良いのですよ。


冬の隅田川の水面に映ったキラッキラの青い光が未だに忘れられん。
葦が生えた川っぱらで飲んだ一瞬で冷めていったホットコーヒーの味が忘れられん。

酒は飲めない。
甘いものが好きだ。
煙草は吸えるだけ吸う。

そんな有様ですが、宜しくお願い致します。


この間サシで加藤ひろたかとご飯を食べた。
ひろとほさきとまっきーとなつとゆりかとりおに、何がしてやれるかを考えなければ。
俺たちは共演者ではない劇団だ。
俺の不始末は彼らの不始末。
彼らの不始末は俺の不始末。
だって劇団だから。


ライチのDVD、間も無く。
楽しみ。


行ってきまーす。


posted by 玉置玲央 at 09:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月16日

生命力

色んな事をやりたい。

絵を描いていたいし学校教育と演劇の関係について勉強したいし、唄も歌うし踊りもする。
そもそも好きだから、そういう事に節操無く手を出すのだけれどそれらの行き着く先は結局は演劇だ。
自分を取り巻く演劇をどれだけ有機的にするか。
そしてお客様に届く何かが、もっと尊く慈しめるものになれと、願って今日も節操無く生きるのである。


生きたくても生きれなかった人がいる。
身の周りに、幾人かいる。
俺は勝手にその人達から、頼んだぞと言われていると思って今日まで生きてきた。
その人達の為にも、死にたくないしなんとなくで生きたくない。
ちゃんと生きて、月並みだけどその人達が目にする事の無かった風景や、打ちのめされる筈だった感情や、何にも代え難い経験を、したい。


今日の天気はあまり良くない。
でも太陽だけは雲の隙間から照っていて、少しだけ救いだ。
東京は晴れている。
願わくばそちらも晴れていて欲しい。


開演の三時間前には劇場に入っていたい。
それから一時間、劇場のどこかロビーだか廊下だか誰の目にも触れない薄暗い場所で、アップをする。
音楽をかける爆音で。
大好きなNUMBER GIRLの大好きなOMOIDE IN MY HEADを爆音でかけるお気に入りのワイヤレスイヤホンでそれを聴く左膝の裏の筋肉と筋を解しながら。
だんだんクリアになっていく頭の中の思い出が遠ざかる、のであります。


夢の劇が終わると直ぐに、柿喰う客フェスティバルの稽古が始まる。
でもいまさらキスシーンの台詞は入ってる入ってるというより染み込んでいて離れていってない。
王子小劇場で初演を迎えたあの時の身体も心も未熟で悔しさばかりが募ったあの時と、老いたのか衰えたのか解らんが何かを得たり失ったりした今、今こそ立つ王子小劇場でどんな風景が見れるのか楽しみだ。


フランダースの負け犬は、中屋敷法仁の戯曲の中でトップクラスだ。
これと贋作・マクベスが、俺は好きだ。
皮肉と悪ノリと不謹慎さが、これらの戯曲には匂っている。
良し悪しかも知れないが要はそれをコントロールする事が、大事なんだ。


駅に着いた。
今日も本番やります。
posted by 玉置玲央 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

殺風景

世の中、自分の事しか考えてない人ばかりで、それはきっと当然の事で何故なら皆自分が愛しいから。
誰かを愛したら角が立って、その角に足の小指ぶつけて、悶えて、の繰り返し。
きっとそういう事が蔓延って、誰かを想うのが怖くなって今に至る。

人は一人では生きていけない。
人は幸せになる為に生きている。

でも、揺るぎ無い事実として、人は最期、死ぬ時は独りなのだ。
だから生きている今は、独りを拒絶して駆け抜けて行きたいものだ。

でも、世の中、角が立ちまくってるから走るのが怖い訳だ。

独りである事を渇望はしないけど、誰も信じないで、自分の為だけに生きる術とその価値を、見出す必要もあるかもなって、思う今日この頃。

孤独の大切さと強さと揺るぎなさを、知らなければならぬ。

そんな、真田十勇士千穐楽の朝さ。
posted by 玉置玲央 at 09:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月22日

玉置玲央のワークショップ2014ちょっぴりコース/がっつりコース

再びお知らせです。

ワークショップを開催したばかりですが、更に開催します。
1日のみではありますが、午前中をちょっぴりコース、昼から夜までをがっつりコースと題しまして、丸1日皆様とあらゆることを共有出来たらと思っています。

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玉置玲央のワークショップ2014ちょっぴりコース/がっつりコース

■参加資格
ちょっぴりコース、がっつりコース共に健康で演劇が好きなら、年齢性別問わずどなたでも。
但し、俳優として舞台に立った経験のある方のみを対象とさせて頂きます。
飽くまでこのワークショップの目的は、「若手俳優の育成と交流、日本演劇界の土壌成形、舞台俳優の精神衛生の浄化と情報共有」を目的としております。
未経験の方は申し訳ありませんが受講頂けません。
どうかご了承下さい。

■場所
都内某所
参加者の方にのみお知らせします。

■日時
2014年11月29日(土)

【ちょっぴりコース】
10:30〜13:30
【がっつりコース】
14:00〜17:30
18:00〜21:30

【ちょっぴりコース】1コマのみ3時間
【がっつりコース】1コマ3時間30分、計2コマ7時間

※【がっつりコース】は運営の都合上2コマ分けて表記していますが、原則2コマお受け出来る方のみを対象とさせて頂きます。
ご了承下さい。
また、【ちょっぴりコース】と【がっつりコース】両コースを受講頂くことも可能です。

■参加費
両コース共に1コマにつき2,000円
【がっつりコース】は計4,000円になります。

■定員
各コース共に10名程

※お申し込みの先着順にて、定員に達し次第締め切らせて頂きます。

■お申し込み
kasuguy.mail@gmail.com

・タイトルに
【ちょっぴりコース受講】
または
【がっつりコース受講】
または
【両コース受講】

本文に
1.お名前(フリガナ)
2.年齢
3.連絡先(電話番号、メールアドレス共に)
4.参考までに、どんなワークショップを受けてみたいか
5.備考

を明記の上送信して下さい。
こちらから追って詳細を返信させて頂きます。
定員に達していた場合にも、ご連絡差し上げます。

※お申し込みの確認は、メールのタイトルを見て判別しています。
お手数をお掛けして申し訳ありませんが、どうかメールのタイトルをお間違えにならないようご協力をお願いします。
また、【がっつりコース】お申し込みの方は、メールを頂いた時点で2コマ分のお申し込みとさせて頂きますので重々ご注意下さい。

■内容
【ちょっぴりコース】
このコースでは朝からのワークショップという状況を利用して、緩やかに身体、喉、そして頭を覚ます方法、手段をお伝えしていきます。
自身を覚ました後は、他人とのコミュニケーションを通して関係性を覚まします。
一日の演劇を、そしてこれからの演劇を、円滑に過ごす為のありとあらゆるウォーミングアップをするコースになります。

【がっつりコース】
このコースでは、他者との交流を通して発声法、身体の使い方、コミュニケーションの図り方などを、時間を掛けてお伝えしていきます。
7時間でひとつの座組みを創り、その座組みの中で自分はどう存在するか、共演者に対しどんなアプローチをとり何が産まれるか、そしてそれをお客様に伝えるということはどういうことなのかを一緒に探っていきます。
出来る限り長く演劇と過ごす為の、そしてプロフェッショナルな俳優を目指す為のコースになります。

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偉そうなことを謳っていますが、僕自身も答えなんて知りません。
重要なのは、皆様と出会って一緒に何かを探ることが、僕にとっての演劇の幸せなんです。
無限にある答えの内の一つとして、【幸せ】があってもいいじゃない。

もし万が一ご予定が空いておりましたら奮ってご参加下さいませ。
一緒に幸せになりましょう。

玉置玲央
posted by 玉置玲央 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月17日

玉置玲央のワークショップ2014秋

お知らせです。

1年振りにワークショップを開催します。
この1年間で得た全てを、おこがましい事ですが皆様と共有出来たらと思っています。

--------------------

玉置玲央のワークショップ2014秋

■参加資格
健康で演劇が好きなら、年齢性別問わずどなたでも。
但し、俳優として舞台に立った経験のある方のみを対象とさせて頂きます。
飽くまでこのワークショップの目的は、「若手俳優の育成と交流、日本演劇界の土壌成形、舞台俳優の精神衛生の浄化と情報共有」を目的としております。
未経験の方は申し訳ありませんが受講頂けません。
どうかご了承下さい。

■場所
都内某所
参加者の方にのみお知らせします。

■日時
2014年11月19日(水)〜21日(金)

19日(水)18:30〜21:30
20日(木)18:30〜21:30
21日(金)18:30〜21:30

以上、1コマ3時間、計3コマ9時間

※全コマ通しで受けて頂かなくても大丈夫ですが、ワークショップの内容的に、通しで受けて頂いた方がより意図が伝わるかと思います。

■参加費
1コマにつき2,000円

■定員
1コマ10名程

※お申し込みの先着順にて、定員に達し次第締め切らせて頂きます。
また、3コマ通しでご参加頂ける方を優先的にご案内します。
ご了承下さい。

■お申し込み
kasuguy.mail@gmail.com

・タイトルに
【玉置玲央のワークショップ2014秋受講】

本文に
1.お名前(フリガナ)
2.年齢
3.連絡先(電話番号、メールアドレス共に)
4.参加希望日
5.参考までに、どんなワークショップを受けてみたいか
6.備考

を明記の上送信して下さい。
こちらから追って詳細を返信させて頂きます。
定員に達していた場合にも、ご連絡差し上げます。

※お申し込みの確認は、メールのタイトルを見て判別しています。
お手数をお掛けして申し訳ありませんが、どうかメールのタイトルをお間違えにならないようご協力をお願いします。

■内容
今回は「演劇で遊ぶ」ことを探ってみようと思います。

演劇に携わることの根幹には「楽しい」がある筈で、その楽しさって具体的に何なんだろうということを探ります。
演じること、人と関わること、何か価値観を手に入れること、楽しみの定義は人それぞれだとは思いますが、全部ひっくるめて「演劇は楽しい」のだということを、このワークショップを通じて一緒に再確認出来ればと思っています。
また今回は、基礎的な技術、例えば呼吸法や発声法、身体の使い方も併せてお伝え出来ればと思っています。

演劇に携わることは楽しい。
それだけで一生演劇続けられます。
先ずはそれでいいじゃない。

皆様のご参加を心よりお待ちしています。

玉置玲央
posted by 玉置玲央 at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月25日

漏れる

寒くても不満。
暑くても不満。
人間って欺瞞。


焦燥感は最大の燃料である。
同時に、抑止剤でもある。

取り巻く環境や、状況や境遇や、悩みとか不安とかその全てに対して。
それらには恐らく比較対象があって、自分や他人、しかも今現在に限らず過去に遡ってまで比較して、あの頃を思えばとか、あの頃はあれだけやれたのだからとか、あいつはあんなに活躍しているのにとか、云々かんぬん考え、理由を求めて、意味をつけて、それでようやくそいつが、焦燥感という名のどす黒い靄だって事が解る。
たちが悪いのは、人間だから、前進や打開を探すし、取り払おうと必死になる。
その靄を、靄のままにして捨て置いておくという選択肢は、無い。
無い訳ではないが、暗中模索の海を、先行きも見通しもないまま泳ぎ続けるのは辛いから、だから、えいやあと、未来に進むべき道に火を灯す。
その火を頼りに、泳ぐ。
一寸先を光にして、安心を得る。
そういう時は決まって前しか見ず、安心の糸口を不安に思いながら、掴んで、それだけ見て見つめて、ないので、横を行くものがある事に気付かない。
横を行くものとは他人だ。

他人の存在に助けられて来た事なんて、普通に生きていれば数え切れない筈だ。
人は独りでは生きられないように出来ている。
誰かの為に生きたり、誰かのお陰で生きれたり、一寸先は闇、の更に先の光、の更に先に手を延ばした奴だけが多分、それを痛い程実感して独りじゃない事を知り、安心して、生きる。
で、何と言うか、その心地の良さに甘えるようになる。
真っ黒けっけの海でそんな存在を見つけたら、そりゃそうだ。

その心地の良さははっきり言って毒。

求めるものは増える。
経験や一時の感情や、何かを共有した、かのような錯覚による謎の自信や、何も揺さぶられなくなって心技体が揺さぶられなくなってだったらって勇気を出して決め付けた気持ちや思いや考えとか、なーんも根拠の無い沢山のもの達を拠り所にして、何でも良い、何か、をする、求めるようになる。
そこには祈りや願いが籠っている。
どうか届きますように。
どうか伝わりますように。
どうか。
どうかって。
そんで心地の良さは、そこん所の精査を損なわせる。
純粋な判断材料の下地に、もしくは上辺に、やっぱり靄だ。
すっかり忘れてた靄をぶちまけてぜーんぶ見えなくする。
他人の存在によって救われて、体重を掛けて暫くして、肩を透かされる。
他人に焦燥感を覚える。
負けたくない、刺激したい、助けたい、全ての逆も然り。
でもその傍には、そんな肩透かしが常に息を潜ませている。
という事を、生きて来て、知っているから、その焦燥感を、抑え込む。

焦燥感が人を奮起させ、同時に人の足を絡め取る。

勇気を出した行動、能動の果ての結果が散々だと、もう、救いようがないって、思わざるを得ない。


善と悪を決める。
自分の中で明確に。
それを指標にまぁ生きる。
または生きている間に形成される。
その指標はエゴイズムと紙一重で、どうにもあやふやなものだ。
自分の善と悪は、誰かにとっての悪と善で、自分の力以外、つまり外的要因でそれが歩み寄れない状況下にあると、絶望色が濃い。
そんな訳は先ず無いが、自分が呼吸をするという絶対善が、誰かの絶対悪だと解ったら、もう何にも出来ない。
呼吸をする事と同義で何かを貫いているそれ。
それが誰かの悪だとしたら、一体どうすれば良いというのか。
答えは簡単だ。
誰か、を、考えない事だ。
でもそれは同時に、人である事を手放しているのと同じだと思うから、そんな事はしたくないししてはならない。
人が人の手を取るその摩擦に何が産まれようと、それを尊いって事にして生きれば良い。
そしてそれが、世界と繋がるという事にしたい。
それだけを常にやり続ける仕事、それが演劇だ。
最高じゃねーか。
上等じゃねーか。
深夜の散歩でリセットして、また明日から足の裏をズタズタにして、歩いて行けばいいじゃないか。
別に誰かに迷惑かける訳じゃない。
筈だ。
多分。

死ぬほど一緒に生きてきて、死ぬほど共通言語を探ってきて、だから誰かの為に死んでも良いと思う。
でも、死んだところで結局理解は出来ない。
俺は誰かじゃないし誰かは俺じゃないもの。
死ぬほどの覚悟でも、理解はされない出来ない。

演劇に命を賭ける。
けど、その演劇というものが奪われるその時、つまり、恐らく生命を揺るがす事象を前に、その生命を賭けた繋がりは瓦解する。
神様は結局俺たちの言葉なんて聞いてないし、繋げてくれたのはきっと神様じゃないし。
演劇が奪われる。
繋がりが奪われる。
神様が奪われる。
神様に奪われる。
それでも演劇は、ある。
それでも演劇を、やる。

それは俺にとって絶望です。
愛が愛の様相を呈しているくせに、呈しているが故に、繋がれないまま演劇に命を賭けなきゃいけないなんて、絶望です。
誰かと居るのになぁなぁで、孤独を見ない振りして、解った振りをして、本当は理解出来ないって解っているのに、蓋をして、命を、賭け続ける事の絶望。

嘘をつき続ける仕事の、愛だけは嘘ではないと、思わせてくれよ馬鹿野郎。

人は最期、絶対に独りだ。
ぜっっっったいに独り。
絶対。

だから、誰かと分かち合っても、誰かと繋がっても、誰かを愛しても、どうにもならない。
んじゃないかって気がして、もういいやって、なる。
行ったり来たりの繰り返し。

焦燥、徘徊、結束、絶望。
焦燥、徘徊、結束、絶望。

どうやら死ぬまで、それの繰り返し。
折り合い、つく日は来るのだろうか。
神様、これだけは、どうにかしてくれ。
人に非らざる事、優れなくても、じゃあ、人でいる事だけは、死守させてくれ。


以上、カスガイ 3rd connect のメモでした。

お休みなさい。
posted by 玉置玲央 at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月19日

試験

どんなに短くても、ブログを更新しようと思いました。
posted by 玉置玲央 at 22:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月17日

終幕

遅れ馳せながら。

カスガイ 2nd connect「バイト」
全21ステージが終わりました。

総動員数は2036名でした。
1st connect「リビング」の動員が900名弱だったので、4年間で2倍以上の動員になったという事です。
非常に嬉しい。
ご来場下さった全ての皆様、本当にありがとうございました。



今回は兎に角
人の繋がり
に助けられた公演でした。

先ず何より「"パート"ナー制度」がでかい。

これは、お客様ともっと色濃く繋がる方法は無いだろうかと赤羽ひろみと話し、うんうん唸りながら共に産んだ「発明」でした。

俺は、演劇に於いて演者とお客様という垣根を取っ払いたいと思っていて、同じ空間を共有する仲間、共同製作者、なんなら共犯者みたいになれないかなぁと思ってました。
そういう関係性があってもいいじゃないかって、思うんです。
観る
以外に、
創る
があっても良いじゃないか。

面白い演劇観てもらってそれで繋がるのは勿論なのだけど、その面白い演劇創る時点からもう繋がっちゃうっていう。
それの足掛かりというか、初期段階が「"パート"ナー制度」なんだと思います。

少し話は逸れるかもしれませんが。
そもそも日本国内に於いて、演劇って結局どうやって創られているのか、環境や状況や現状、それから創り手側の想いや叫びみたいなものが不明瞭な部分が多くて、その不明瞭さが演劇水準の向上を妨げているのではないかと考えるのです。
これは演劇に従事する人間の誰もが考え、思い悩みぶつかる部分だと思う。
「知らない」は一番思考を殺すし、「知らせない」は罪だ。
フランスやトルコに行ったり韓国の皆と話して解ったけど、日本の若い演劇人は自分や身の回りの事で精一杯になり過ぎているように思う。
自分の仕事、劇団の事、将来や今現在が勝り過ぎていて、周りや取り巻く環境まで目を向けれない。
と、俺は感じる。
本当に少しで良いから知ってもらおうとする、両手を広げる、場所も考えも開く、兎にも角にも自分以外を、もう少しだけ考えてみる見てみる。
それだけで結構世界は変わるはずなんです。

だから俺は"パート"ナー制度を産み出しました。
知らないを一つでも減らしたい。
ただただ人が集まって、「演劇って楽しいね」って、ほぼ初対面みたいな人達が、老いも若いも男女も関係なく言い合って、その「演劇」って事だけが絶対的にお互いを尊重出来る術として存在している世界が、俺は、好き。
演劇を知り、携わる人を知り、同じ境遇の他人を知り、そうやって演劇が、その人にとって唯一無二になれば良い。
尊いものになれば良い。
そしてその形は人それぞれで良くて、それが、そのキラキラが、明日の演劇を明るくする。
と、信じて疑ってない。

これがパートナー制度の今現在と未来だ。
あなた達はもう、演劇人だ。
お客様と俳優なんて線は糞喰らえだ。
そんなんあるから、自己主張やエゴイズムを正義と勘違いして大衆意見にしよう、押し上げようと、良く解らん活動する輩が現れる。
絶対、目的を見失ってはいけない。

あなたが何をすべきかじゃない。
あなたに何が出来るかだ。

あなたがあなたの為に出来る事など、知らん。
それはあなたでしかないしあなただけで出来る。

あなたが誰かの為に出来る事を、知りたい。
誰かの為にと発信するならば、それは必ず目に触れるはずなのだ。

知らないんだから知るべきだ。
じゃなきゃ、何も語れない。

これは、未来永劫いつまでたっても変わらない。

演劇に従事する全ての人間にとって演劇とは、他人の為にあるのだ。

そんな世界だよ。
ここは。
きっと。

いらっしゃい。



人の繋がりの話をもう少しだけ。

初めて俺が俳優で大阪に行ったのが「いまさらキスシーン」の初演なので2008年とかなのかな。
それから、柿喰う客本隊が大阪に行ったのが「恋人としては無理」で、それが2009年とかの事?
はっきり覚えていない。
初めて山崎彬と出会ったのはこの時。

色々あったんです。
本当に。
でも今、演劇という事を元に、誰も彼もとお話出来る、繋がれるのが本当に嬉しい。
「恋人としては無理」の仕込みやバラしで、精華小劇場の喫煙所で、お手伝いに来て下さっていた現地のスタッフさんと話した事とかすっげぇ尊い。
in→dependent theatre 2ndに初めて行って、当時は二階の楽屋前に当たり付きの自販機があって、何の気なしに缶コーヒー買ったら当たっちゃって、片岡の百萬両兄さんが話し掛けて来てくれたりとか、絶対忘れない。
現地で俺が仕込みバラし手伝ったりした時のガチャガチャした感じ。
やいのやいの。
そんで柿喰う客が大阪行く度に仕込みバラしに来て下さったり。
in→depeodentの1stで仕込みしてる時、相内さんがゲラゲラ笑ってくれてたり。
近藤のヒデシ兄さんがびっくりドンキー連れてってくれたり。
緒方の晋兄さんが頭おかしかったり。
大西のちーちゃんの一人芝居の脚本書いたり、それを上原日呂兄さんが演出してくれたり。
大塚宣幸と出会えた。
SUN!!と出会えた。
色々あった。

演劇で知らない人を知り、それが今なお繋がってお互いを助けたり切磋琢磨したり。
これは本当に超凄い。
大阪のパートナーさん方もそう。

だから俺は、カスガイで大阪に恩返ししたくて、大阪公演をやるのは絶対でした。
自分の団体で面白いもの創って、愛する人達を連れて、いつも言ってる「演劇で恩返し」したかったんです。

本当に助けられました。
東京は勿論、大阪では特に。
人の繋がりに。
大阪だけで600名以上の方に観て頂けて、これは間違いなくカスガイだけじゃ出来なかった。

本当に、本当にありがとうございました。

人間、やっぱり凄い。
演劇で、お返しします。



感じた事。

面白い
つまらない
という感想は良い。
全然良いのだ。

伝わらない
ってのが一番悲しかった。

演出の意図として当然、何もかもを真っ直ぐに出さないようにはしているけれど、伝えたい事、信じてる事、貫いてる事が、微塵も伝わらない時ってのが、本当に悲しかったなぁ今回。
だから未だ未だ精進します。
あと、伝えたい事を伝える為に技術や知恵を身に付けるのは大事ですが、俺は、環境を根刮ぎ変えようと思います。

柿喰う客の「無差別」やった時に、七味が「この作品が面白くないって人は、ご縁が無かったって事だよ」って言ってた。
これは表現者としてはもしかしたら言い訳や逃げの言葉なのかもしれんが、俺は超納得した。

今回の「バイト」をやって一番自分の中に起こった変化は、揺るぎない「運命」を迎え入れられた点。
物事には理由と、そこに至る事情と、それらを取り巻く環境や状況があって成り立っている。
それらが、留まらず常に動き、飛沫し、今現在を形創っている訳だ。
停滞は皆無。
だから、その瞬間瞬間の自分や場所や結果は「絶対」なのだ。
大いなる「何か」が働いて「そう」なっているのだ。

この芝居が観れた人はそういう運命。
この芝居が観れなかった人はそういう運命。
舞台上の流れや感情、関係性も運命。
伝わらないのも運命。
生きてるのも、演劇やってるのも、泣くのも笑うのも怒るのも、何もかも運命。
大いなる何かに導かれた結果なのだからそうだし、もうこれはしょうがないのだ。
そしてそれは、諦めろ、諦めるって事ではなくその運命を「受け入れる覚悟を決めろ」って事だ。

覚悟があれば、それが信じるべき道になる。
覚悟が全てを肯定する。
同時に、全てを否定する。

物事に「納得」を発生させる為に、覚悟を決めなくてはいけないのだ。
運命を受け入れる為に。
それが、それこそが、まず第一の環境改善。

妥協や譲歩は必要ない。
運命に対しての覚悟が必要。

そして言わずもがな、俺は演劇界を何とかしたい。
色々散々掲げているけれど、勿論、演劇という媒体の普及や従事者の充足とか考えてるけれど、俺が伝えたい事がきちんと伝わるような演劇界に、変える。
自分好みの世界を創りたいって事ではなくて、作品も環境も感じ方も関わる人間も、もっともっと多様性をはらめるような環境を創りたい。
これについては、いずれゆっくり。



カスガイの事。

先ずカスガイは、玉置玲央が主宰でやっている集団で、しかし方針として、集団の意思は俺には無い。
先述した運命に、全て委ねている。

何度でも言うが、カスガイは必ずしも演劇を創る団体ではない。
だから創った作品を愛して大切に思って下さるのは本当にありがたい。
が、団体に過剰に演劇の期待をかけられてしまうと、少しだけややこしくなる。

やりたい時にやりたい事をやれるだけやるので、コンスタントに公演を重ねるつもりは無いし、今後の作風や我々が何をやるか目指すかは我々も決めていない。
ただ、そういう団体があるんだなぁってくらいに思っていて頂ければ幸いです。

何が言いたいかって、悪い意味じゃなく、我々自体には価値が無く、飽くまで創り出す何かに価値があるんだって事です。



俺はどんなんなろうと、取り巻く人の数が膨大な数になろうとも、変わらん。
一人一人ときちんと繋がれる方法をずっと模索し続けるし実行していく。
その為に必要な事は全てやる。

近くで大切な仲間が泣いていたら、カスガイが救ってやる。
演劇に対する不満は、カスガイが払拭する。
誰かが誰かを思う事を、カスガイは後押しする。

「知らない」と「知らない」を結び付けて、最高に尊い瞬間を産み出してやる。

それが、人間集団カスガイ。



長くなりましたが、大P会も終わって、一応カスガイ2nd connect「バイト」が幕を降ろしたので、ようやく文章をまとめました。

長々書いたけど言いたい事は唯一つ。

おつかれ。
posted by 玉置玲央 at 11:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月11日

眼鏡

人は、知らず知らずの内に生かされている。
それは、人間が影響を与え合って生きて行くように出来ているからで、そういう時に、あぁ、独りではないのだなと強く実感する。

別に、誰かの為に生きる必要なんて全くない。
必然性は皆無。
それでも、誰かの為に生きたり生きれたり、そうしようと思えるのは思うのは、自分の、誰かの、影響だ。
それが良い悪いじゃなく、どうしてもそうなってしまうのだ。
じゃあその原因は何だろうって考えたら、人は独りでは寂し過ぎるからだ。
独りで居る事は寂しいし、独りで何かが出来てしまう事も寂しい。
寂しさが人を突き動かして、人を独りにせず、それがえらい遠くまで伸びていって、自分を、誰かを生かすのだ。
もっと言ったら
生きていても良いんだ
って思わすのだ。

寂しさは人を生かす。
これは、カスガイ 1st connect「リビング」でも触れて来た命題。
独りでも、何かを成し遂げても、例えそれが何かを失う事でも、何かが誰かを生かす。
抗えない生命力。
の影に見え隠れする、寂しさという確かなものの話。
でございました。

人ってのはそうそう変わらんし、やっぱりどうしても独りでは生きていけない。
圧倒的な何かが俺を、君を、あなたを、生かしているって、信じて疑ってない。
その事実を、取り払いたい消し去りたい事実を、知らず知らずの内に心の拠り所にしてしまった人間たちの、醜くも美しい、情けなくて儚い、抗い。
そしてそれを超越して、唯一無二を貪る程に独りである事に絶望してしまう何か。
何かって言うか寂しさ。
を、俺は、愛しく思う。

今を明日を永劫先を生きる為に、見極め続けて、生きて行こうじゃないか。
それが、生命の燃焼ってやつで、そんな事を想起する演劇を、創りたいと思います。

簡単に言ったらね

生きたい。
って事さね。



カスガイ 2nd connect「バイト」では只今、"パート"ナー制度というものを導入し、躍起になって人と繋がっていってます。
公演を創るに当たり、創り手とお客様という関係性を取っ払う事は可能か、また、取っ払う事でどんな効果があるかを、知りたいという思いがむくむくで実現に至りました。
また、公演が始まるその瞬間、客席と舞台上という関係性になるその瞬間まで、出来る範囲で同じフィールドに居たいという思いもあります。
便宜上お客様という言葉を使いますが、もはやお客様は、芝居を観るという行為だけに留まらず、芝居を創るという行為に手を延ばせるのではないかと思ったのです。
まぁしかし、それは俺の結構エゴイスティックな考えでもあるので、つまり、観るもの観せてくれりゃ良いからそういうの要らんわって方も当然いらっしゃると思ので、お客様が選択出来るようにこの制度を取らせて頂きました。
実験的に。

ゴーチ・ブラザーズプレゼンツ「飛龍伝」の時、赤羽ひろみが仕掛けた居酒屋さんを半日貸し切ってのチケット販売及び交流イベントで、確信した事があって。
一つは、お客様は案外お客様同志で繋がりたがっているのかもしれんという事。
感想の交換や、好きな演劇の話、自身と演劇との関係性の相談などを、その日初対面の人たちが、何の気兼ねもなくお酒を飲みながら話している姿を見て、これこそが演劇の持つ力だなぁと実感した。
お客様同志の交流の場は、需要があるんじゃないかと思った。

二つ目は、それを俺がこの目で見ていたいという事。
演劇を介して人が繋がるというのは、さっきも書いたけどそれが演劇の力だし、凄く素敵な事だと思う。
その瞬間に、居合わせたい。
幸せが多発する瞬間に、立ち会いたいんだなぁと思った。

以上の事を全て成し得るのが今回の"パート"ナー制度だと思っていて。
お客様同志が繋がれて、観るだけでなく作品に「参加」して、それを産み出す人間がその場に居て全てが繋がって。
公演に関わる演劇家が一同に会し、今はまだ観るも演じるも関係なく作品に携われる場所を創りたい。
そんな思いが込められた企画でございます。

でまぁ長くなりましたが何が言いたいかと言うと、"パート"ナーの皆様、めちゃくちゃ働いて下さっていて本当にありがとうございますって話ですよ。
人の力を目に見えて実感できる媒体を利用してるもんですから、あんな事からこんな事までアナウンスして下さっていたり、カスガイという団体の根幹たる「繋がる」事を推し進めて下さっていたりと、本当に頭が下がる思いなんです。
ありがとうございます。

と、同時に。
しめしめって思ってます。
だって、俺は幸せだし、きっと携わって下さってる皆様幸せだし、公演の噂は伝播されるし、何もかもが、今のところ繋がっている。
出来るんだなぁこんな事って、自分でもびっくりしています。

情報の管理や、今後は"パート"ナー以外の方が疎外感感じないようにしないとなぁとか、特典と業務のバランスとか、こちらが気を付けなければならない事、注力しなきゃいかん事山積みなので、そこは気を遣いつつ頑張って行きます。
同時に、まだまだ未成熟な企画でございます。
我々も気付かない点や見落としている部分があるかもしれません。
それも含めてどうか皆様、お力添えの程、宜しくお願いします。



俺はただ、面白い事したい。
皆で。
posted by 玉置玲央 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月17日

前歯

演劇に国境は無い。
と、明確に感じたのは今から5年前。
柿喰う客「恋人としては無理」をフランスで上演した時だ。
フランス、トルコ、イギリス、韓国etcから、老いも若いもごちゃ混ぜに様々な劇団がブザンソンという街に集った。
23、4歳の自分には贅沢過ぎる時間だった。
同時に俺は「日本の俳優」にならなければなと、思った。

それは未だ未だ狭い考え方なんだが、それでも当時感じていた自分の劇団での事とか、小劇場界でのあれやこれやは、瑣末に過ぎなかった。
言葉が通じない世界で演劇だけが共通言語として成り立ち、魂を揺さぶる人間、何かを伝える事に必死な人間がそこに居れるという、非現実を更に越えた超非現実。
それが日本国内で出来るのは当たり前で、そういう凄まじい事をやり続けて発信し続けて、刺激を与えなきゃと思った。
誰に?
自分に。
他人に。
世界に。
そしてそれが俺は、「日本の俳優」になるという事だと思って今まで生きてきている。
これからもそうだ。

文字通り日本の俳優として、世界に観られたい、観てもらいたいと、追い求めている。
それがひいては日本の演劇界に、役に立つと思っているからだ。

そう思えたのはブザンソンで、遠いヨーロッパの地で、ある国のある劇団に出会えたからだ。
魂と魂が邂逅する機会をくれたからだ。
彼らが。

だから俺はその恩を一生忘れない。
忘れず、大切に大切に、これから先もずーっと演劇やって生きていく。
それが俺のやるべきことだなぁって、思って。

全くもって演劇ってのは、非の打ち所がないくらい素晴らしい。

だから、ありがとう。
本当にありがとう。
posted by 玉置玲央 at 23:23| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月06日

放棄

久し振りに、ブログを更新しよう。
そうしよう。

今年の頭、飛龍伝から初まり、箱庭円舞曲の円を終え、玉置は今、カスガイの準備や書類作成やまぁ何は無くともカスガイで。
走り回っています。

それと平行して4月、ある事に従事させて頂きますがこれは発表出来るようになったら発表します。

3月の22日で、28歳になりました。
30が近くなると身の振り方を考えるとか何とか言われますが、何もまだ考えられません。
ただ、俳優としてもそうですが演劇家として、20代の人間が発言、発信するモノと、30代が発言、発信するモノには、実力や境遇や状態とはまた別の説得力のようなものが、産まれるのだろうなぁと勝手に思っています。
だから、早く来い30代。
と思っています。

自分は自分なので、当然他人の事は解り切らない解り切れない。
同時に、他人は自分の事を解り切れる訳がないと思って生きていて、10年来の付き合いや、共に修羅場を超えて来た方々や、何とも言えん感覚に捉われて邂逅した奴とか、が、そういうのをあっさり取っ払って懐に入り込んで来てくれているのが非常に心地良いってのに、それを知ってか知らずかズカズカと、領域に入り込む人がいくつになっても居る。
それは当然の事なんだけどね人間だから。
人が大切に紡いで来た人間関係を、まるで昔から知っていたかのように我が物顔で語られたり吹聴されたり、されるのは嫌なんだなと、ふと、思う。

誰かに影響するという事は、良かれと思っていようがそれは自身の自意識や主張や要求や欲求を押し付ける、推し進める事になる訳だ。
俺は
影響する
という事を追い求めるものの一つとして今まで生きて来ているが、その辺のデリケートな部分、距離感みたいなものの大切さは、最近になってようやく解って来た。
つもりだ。
影響するされる事にも需要と供給は必ずつきもので、それをおざなりには出来ないしてはいけない。
人の「絶対的に踏み込んではいけない領域」に、敏感でなくてはいけない。

そういう事を延々考えながら、カスガイ 2nd connect「バイト」について、原案や演出を練っている。

人間って、自分の絶対正義を貫く事が正しいのか。
誰かの為にそれを曲げてでも事を成すのか。
生きる事の尊厳はどこにあるのか。
食って寝て、働いて稼いで、それが生きる最低限の事だとして。
それに付随するものは果たして生きる事に不要なのか。
不要じゃないのは解り切ってるから、じゃあ絶対に必要にするにはどうすりゃいいのか。
最低限を最大限に生きるには、多分それは、抗う事なんだと思います。
結果はどうあれその現状を、その窮地を、どう打破したかどう解決したかどう乗り越えたか。
自身で出した答えに覚悟を決めて、どれだけ思いを注いで、今を抜け出したか。
なんだと思います。
だから、大きな変化なんか別に無くていいし、人生が劇的に変わらなくてもいい。
流す涙の数が、少しでも減ればそれは、抗ったって事だ。
自分に。
他人に。
環境に。
世界に。
何かに。

誰かと交わした約束を、反故にし続けるのはもう駄目だからこうやって、果たしても良いじゃない。

って、考えながらパソコンをパチパチ叩いてます。
毎日。

何となく解ってきているのは、義理や人情だけで人間動いたっていいじゃない。
あとの事とかリスクとか置いといて、それを上回る人を想う気持ちで動いたっていいじゃないかって。
そんな事。

煮え切らん。
圧倒的に違うなぁって。
良く解らんくても背中押せてなんぼじゃないのかと。
俺は、思う。
この、絶対にカッチリ嵌まらない感じがもう結構絶望的だ。

自分らしく生きれなかったり
自分を殺して生きたり
嫌だなぁって思う事を歩幅合わせて有耶無耶にしたり
それに対して本気であればあるほどケチが付く。
ケチを付けてる。
自分で。

そんな生き方は放棄しましょうや。
もう、放棄。
全部、棄てたる。

案外皆、どうしようもない焦燥感に駆られて生きてるよ。

だから、大丈夫。

あー
やる事一杯なのに、何も出来ん。
歯痒い。
posted by 玉置玲央 at 19:50| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

箱庭円舞曲 focus#3『円』

【出演・予約情報】箱庭円舞曲 focus#3『円』
2月2日(土)AM10:00〜チケット発売開始!
取り急ぎのご案内になりますが、以下のフォームから玉置玲央の扱いでご予約頂けます。
お待たせしてしまったお客様、申し訳ありませんでした。
どうか宜しくお願いします。

http://www.quartet-online.net/ticket/focus3?m=0abhdbc
posted by 玉置玲央 at 01:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月15日

紅葉

12月14日の金曜日。
飛龍伝プレ稽古終了。
参加者は

玉置玲央
黒木華
稲葉友
橋本淳
加治将樹
間宮祥太朗

濃いい。

自分は未だ未だ未だ未だ捧げが足りない。
山崎一平に負んぶに抱っこ。
強要が甚だしい。
もっと彼が求めている事を俺が体現してあげないと狡い。
求めている事に潰されない何もかもを手に入れなきゃ、いつか見放されてしまう。

という文章をツイッターに書いたのだが。

捧げる
という意味。

【1】両手に持って目の高さより上にあげる。

【2】慎みの心をもって、神仏や目上の人などに物をさし出す。たてまつる。献上する。

【3】まごころや愛情を示して相手に尽くす。

【4】自分の持つすべてを惜しみなくある対象につぎこむ。

【5】高くあげる。

【6】高い大きな声を出す。

だそうだ。

【3】と【4】が余りに絶妙で泣けてくる。

具体的な事を言えば、自分は相手の事を知った気になって、もう自分のものだって安心しきって、こいつの事は何でも解るんだって、甘えてる状態。
だから欲を出して、少しくらい自分がやりたいようにやって良いよねって、放出する。
それが良くない。
いや、正確に言えば良くない訳ではないが、山崎一平に関しては良くないと思う。

人を知る事
に果ては無い。
見えてなかった部分が見えて来たり逆に見なくなったり。
知らない事を自分も相手も知ったり逆に忘れたり。
新たな発見と発展。
それは自分も相手も成長したり省みたりしているからであって、例えそれが本に書かれた登場人物だからって、変わらない。
同じ状態や境遇で再び出会える事なんて、万に一つも無いのだから。

だから疑う事、探求する事、研鑽する事。
ひと時も安心する事なく、大切にしようと努力する。
大切にしてもらおうと努力する。
その相互作用が、人と人とを抱き締めさせるのだ。
俺と山崎一平を抱き締めさせる。
俺ばかりが、俺の求める事を押し通すのは平等じゃない。
相手が求める事を受け容れて、それに応えて、居心地の良い距離を探り続けなければ、関係性なんて直ぐに霧散してしまうのです。
相手が動けないならこちらが動けば良いだけの事。
むしろ向こうは、戯曲という形で動かないながらも、手の内の全てを曝してくれているのだから。
こちらも曝して、動いて、叫んで泣いて、こちらばかりが取り澄ましているのなんて糞喰らえだ。

探求も追求も、疑惑も蠱惑も、放出も受容も、全力を尽くす。

それがそれこそが、
捧げる
って事だ。
と思う。

そしてそれは、当然ながら自分と役の事に留まらない。
共演者に対しては勿論の事、例え演劇に携わって居なくても、人間に対して、友人に家族に恋人に配偶者に、もしかしたら隣人にすらも、言える事なのだ。

いつでも、支え合って零距離で、抱き締めて居たい。
そんな人間で居たい。
そんな演劇に携わりたい産み出したい。

求め過ぎるのは罪じゃない。
もっと求めれる事を、知ろうとしない事。
求められている事を、知ろうとしない事。
その
知ろうとしない事
が、罪なのだ。

罪を犯せば罰が当たる。
誰だって罰なんて当たりたくないでしょ。
だったら、罪を犯さなきゃいいだけの事です。

ただ、それだけの事です。



ここだけの話、プレ稽古後に貧血でぶっ倒れそうになった。
それにも耐えれる身体と精神を。
山崎一平の為に用意して。

本稽古は20日から。

捧げる事に決まりは無い。
いつからどれだけ決まりは無い。

考えて点。
動いて線。
共有で面。
届けて賽。

それを繋ぎ合わせて円。
数が多ければ多い程、歪さは無くなる角が円やかになる。

最後は恐らく球形。

そんな感じで。
posted by 玉置玲央 at 18:47| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高揚

ホテルの廊下に流れるクラシック音楽が、何かしらを後押しする。
廊下の突き当たり。
一番奥の部屋、そこまで行くのも帰るのも、億劫。
だから当然、出て行くのも億劫だ。

今回の旅で目の当たりにしたのは、いたらなさと未熟さだ。
自分自身の怠慢だ。
演出や求められている事に対して、受け身になり当たって行かなかった事だ。
自分に欠落している部分を正義として、知らない事は知らないままにしていた事だ。

しんどさは皆無。
ただただ申し訳なさが募る。

散歩が好き。
知らない街の知らない場所で、知らない人間に囲まれ擦れ違い、当て所なく歩くのが好き。
見た事ない風景の蓄積が、脳や心を新鮮にしてくれるから。

思えば俺は、
見た事ない風景
に、何か固執している。
固執なのか解らんが、得たいし与えたい。
それはもう、人類未達成の大発明みたいなもので、俳優にはそれが出来るって信じてる。
だからずっと俳優やっている。
舞台俳優やっている。
演劇やってる。

生のやりとり。
それをお金を払って観るという行為。
その凄まじさ。
そんな事は他に存在しない。
だから何かが起こせる。
何かが起こる。
魔法だ。
舞台は魔法。

空は晴れ晴れ。
なのに雪が降っていて、だから最初は雪だと思わなかった。
綿か何かが、舞っているんだと思った。
んな馬鹿な。
海からから吹き込む冷風が、山に当たり街に戻る。
瀬戸内沿岸都市の特徴だ。
風すらも師走。

そんな事はどうでも良くて。

氏曰く。
我々のやっている事はアートでも何でもない。
もっと土臭い、身近なものだ。
少なくとも俺はそれをやっている。
それを高尚なもののように扱われては堪らん。
と。

氏曰く。
我々は命懸けで舞台に立っている。
俳優とはそういうものだ。
だから、そこにぶつかる事、そこに何かを言う事も、命懸けでなくてはならない。
中途半端が一番価値が無い。
と。

氏曰く。
自分という存在に責任を持て。
吐き出した言葉の全てが、佇まいが舞台を形作り動かしている。
人も感情も空間も。
そこに責任を持て。
と。

氏曰く。
経験していない事を経験する事は、非常に尊い事だ。
理不尽さの果てにとてつもなく大切なものがあったりする。
その可能性すら放棄してしまうのは勿体無いではないか。
と。

氏達はもはや、俺にとって神様だ。
これだけの言葉を耳に届けてくれたという事。
第一線の方々の言葉を受けれたという事。
それだけで途轍もない事なんです。

何を食べ、何を消化し、何を栄養にし、何を排泄し、何を産み出すか。
選択肢は無限にあり、無限にあるのを前にあれこれ考えるからいかん。
これなら出来る、これは近い、これは遠い、云々考えてるくらいなら、無限を有限に出来るようやってみる。
やらなきゃ無限。
やりゃ有限。
動けばそこに意味や価値が産まれ、明確な線が引かれる。
それは、線の外のものを諦めたって事なんかもしれないが、同時に線の中のものは死んでも手放さないという事だ。
何かを削いだ果てに残るものには、絶対的な価値がある。

そう思わなきゃ思えなきゃ、ここから一歩も動けなくなってしまうのです。

狐の嫁入りみたいな雪の、その一粒一粒を凝視するのはほぼ不可能。
でも、それに挑まなきゃ、俺は多分瑣末な事だなと、雪って認識しないまま広島を後にしたと思う。
疑い、凝視し、見上げ、触れ、漸く雪だと解った。

そういう事なのだ。

それ程までに、異常な天気だったんだよ広島。



眠気に委ねたら、万々歳の冬。
熱い露天風呂に、ザバリと浸かりたい。

冬。
ホテル。
雪。
新幹線。
posted by 玉置玲央 at 18:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする