自分が所属する劇団『柿喰う客』について、書いてみる。
初めて文章にしてみるからぐちゃぐちゃだけど、読んで頑張って書くから。
興よ乗れと願いながら、書くから。
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柿喰う客フェスティバル2017に於いて最後に産まれた作品『極楽地獄』を観る。
俺は柿喰う客の創設メンバーで、旗揚げから居る。
もっと言えば旗揚げ前の、中屋敷法仁が一人で、劇団ではなくプロデュース団体として暴れ回っている頃から居る。
それを踏まえてこの『極楽地獄』という作品は、当時の、俺たちが20代前後のどうしようもない小僧だった頃の柿喰う客を思い起こさせる作品だった。
と同時に、柿喰う客の『最新形態』の作品であった。
どゆことー?
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柿喰う客が標榜する『圧倒的なフィクション』という作風は、やる人受け取る人にとって意味合いは様々だと思う。
例えばマシンガンのように繰り出される台詞速度や、過剰なまでの身体酷使、客席に正面切って打ちかます鈍器のような言葉とか、目まぐるしく変わる音、明かりとか。
こういった良く目にする耳にする柿喰う客の感想がわかりやすいんじゃあなかろうか。
今回の『極楽地獄』では、扱っている重苦しいテーマに対して、上記の虚構性たっぷり要素をこれでもか!と押し出すことによって、圧倒的なフィクション足り得ている部分が多いと思う。
のだが。
加えて何が俺を20代の小僧に舞い戻らせたのかと言えば、もう一つ良く中屋敷が口にする『皮肉と悪ノリ』の部分。
作品にじっとり纏わり付いているこれが、柿喰う客の圧倒的なフィクションの大部分を担っていて同時に、懐かしーい気持ちにさせたのです俺を。
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今から約10年前の柿喰う客を知っている方々が、お客様の中にどれくらい居てくれてるだろう。
当時の柿喰う客は出演者が多い時は50人以上、ゴールデンタイムのお茶の間だったらチャンネル変えちゃうようなド下ネタや、いやいや不謹慎だよってな内容の作品を上演し、大体クライマックスで出演者全員で1曲唄って踊り、最後にピリリと締めてカーテンコール、な団体でした。
今にも通ずるところではあるけど、中屋敷法仁の演出で眼を見張る点は、その多過ぎる登場人物を漏れなく『死なす』ことなく、必ず全員印象付ける手腕にあって、どうしてそれが出来るのかと言えばこれまた本人が公言する『僕は俳優さんの一番のファンなんです』という言葉に違うことなく、俳優個人個人の能力や長所を良く見ていて、更にそれを的確に作品に配置出来る能力を持っているからだ。
中屋敷法仁は実に『優しい演出家』であり、俳優が出して来た訳のわからんプランや芝居を受け容れてくれる。そしてさっき言った通りそれを巧みに芝居に組み込んでくれる。
少なくとも当時の自分は、それが嬉しくて堪らなかったからもっと面白いものを、もっと訳わからんものを、もっと熱量のあるものをと、繰り出し続けていた。中屋敷も面白がってじゃあこうしよう、こういうことは出来ないか、こっちの方が良いんじゃないかと、相乗効果で魍魎跋扈する作品を共に産み出していった。
若い時なんて箸が転がっても面白いし、集まってワイワイしているだけでも楽しくて、そこに更に誰々には負けたくないとかもっと誰々に影響したいとかもっと面白いものをもっと下らないものをと、若さ故の競争心みたいのが相まってその相乗効果はどんどん昇っていって。
でもその相乗効果の正体は実はそんなに大したものじゃなくて、先ずは中屋敷や共演者を、びっくりさせたい笑わせたい楽しませたい狂わせたいっていう、言葉を選ばずに言えば『究極の内輪ノリ』ってなだけだった。
大袈裟にかつ美談のように語るけど、その『究極の内輪ノリ』を磨きに磨いてお客様の為の『究極の内輪ノリ』にしたものが、今現在標榜している『皮肉と悪ノリ』の部分なのだと思う。
要は柿喰う客の芝居は、ふざけてなんぼなのです。
ふざけるの超大事。
語弊あるな、そんな『つもり』で取り組むの大事これは出演者として、ね。
アフタートークでも度々話題に上がるけど、真面目な流れにどうして急にふざけたシーンや芝居が挟まれるのかって、お客様に準備してもらう為なんです次に訪れる真面目なシーンのハードルを下げる為なんです真剣に肩肘張って観てなくて大丈夫なんですよーって伝える為なんです。
その匂いが雰囲気が『極楽地獄』にはプンプンしていたから、だから懐かしーい気持ちになったんですよ。
大人数でワイワイと、人によっては拒否したくなるような内容を、圧倒的なフィクション及びちょこちょこ差し込まれる下らんことで包んでお届けするそれ。
ザ・柿喰う客、である。
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しかし『極楽地獄』はそれだけじゃあない『最新形態』なのである。
じゃあ何が?
そりゃああんた、出演者よ。
こればっかりは観て!としか言いようないけど、
永島敬三
を観て見て視て欲しい。
上手い俳優は日本全国居るだろうけど、アレをやらかせる俳優は居ない存在しない唯一無二。
声量、滑舌、運動量、呼吸、温度、筋肉の緊張と弛緩、照明効果と音響効果の纏い方、どれをとっても柿喰う客の最先端を担っている。
中でも永島敬三の一番に凄いところは、ゴメンこれものすごーく抽象的な話になるけど『抜刀/納刀』の美しさにある。
所作から所作、表情の強張りから抜くまで、移動して立ち止まるまで、アレやこれやの動きが瞬間的に放たれるのではなく、きちんと滑らかに段階を踏んで繰り出される。
こっからマジで意味わからん話になるかもだけどついてきてカモン!
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柿喰う客の動き、それから音、明かりとの付き合い方ってのは結構シビアで、例えば『ギュイーン バシュ』みたいなSEがあったとしたら、照明は『ギュイーン』の間はバックからの明かりで俳優をシルエットにし『バシュ』で俳優を際立たせる白味の強いトップ明かりにカットチェンジ、SE鳴り終わりを拾って地明かり気味の明かりにフェードで変化していき空間を広げる、ってな展開をする。
音はその照明のフェードの変化に乗って行くように同じくフェードで、次の不穏なMがイン、不穏を緩やかに煽る、としたら。
俳優側は極論を言えば『ギ』で動き出して『ュ』で止まれれば万々歳。
身体をブらすことなくしっかり地に足つけて『止まる』ことを意識してそれを遂行する。
身体の雑味、詳しく言えば身体に染み付いた慣性や癖は徹底的に抑えて『見応え』に貢献させる。
のだけど例えば照明は『ギュイーン』の間中カットチェンジとは言え変化し続けているし、俳優は『ュ』で止まるのだけどキュー、つまり卓のボタンを叩くタイミングとしては多分『バ』で叩くことになるはず。
なのでたった1秒くらいの時間だけど刹那に変わっているように見える明かりも段階を踏んで変わっていて、それに俳優も乗っかれなきゃいけない。
何が言いたいかと言うと『ギ』で動き出したら『ュイーン』の間はじっとり動き続け『バ』でワンアクセント、例えば本当に一瞬身体をロックして『シュ』で身体をぶっ殺す。殺すってのはさっき言った雑味を排除した状態。で、次の明かり及び音のフェードの変化スタートに合わせて『一緒に』次の身体の状態に展開するってのが、非常に美しい状態。
俳優の動きで言ったら『ギ』で動き『ュ』で止まるの中にこれだけの『タスク』がある、というか込められる。
で、だ。
これが出来ていて更にそれを凌駕するものを打ち込めているのが、永島敬三なのだ。
筋肉で以上を遂行するのは簡単なんだけど敬三は加えてしなやかさがある。
その始まりから途中の滑らかさと納めの美しさが、まるで刀の『抜刀/納刀』のようなんですね。
さっきも言った通りこれを動きだけじゃなく台詞、表情、もっと言ったら雰囲気にまで適用させられるのは、日本全国探しても敬三以外いない。
永島敬三は柿喰う客の10年前を知っている。
そしてそして今現在、外部演出を含め中屋敷法仁演出を一番受けているのは敬三だ。
昔と今を繋いでいる永島敬三がトップ張ってる作品が『極楽地獄』な訳で、この作品は唯一無二のハイブリッド柿喰う客足り得ているのです。
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訳のわからん話をごめんなさいね。
はっきり言おう。
『極楽地獄』を目撃して欲しい。
そして『柿喰う客フェスティバル2017』に参加して欲しい。
他の作品だって間違うことなく『柿喰う客』だから。
大層な話も表現も、お客様あってのものだから。
好みや面白いかは別として、こんなすげー劇団無いから。
よろしくお願いします。